物語に見る武士の成立
江戸時代の 1689 年に、松尾芭蕉が門人の曽良 ( そら ) を伴い 「 奥の細道 」 を旅した際に、平泉で詠んだ有名な句があります。
夏草や つわものどもが夢のあと昔から合戦をもって業とする者が つわもの ( 兵 ) と呼ばれ、貴族や官人に仕えて家政や警護を担当する者が さむらい ( 侍、注参照 ) 、さらに武力をもって公 ( おおやけ ) に奉仕する者が もののふ ( 武者 ) と呼ばれて歴史に登場し、そして消えて行きました。 そこで武士とは いつ頃から日本で生まれ、どのように発展して権力を獲得し、武士の政権である鎌倉幕府を開きその支配者となったのか、調べてみることにしました。
注 : ) 侍 [ 1 : 弥生時代の兵士 ]日本列島に稲作が始まり、金属器を使うようになったとされる 弥生時代 [ 一説によれば、B C ( Before Christ ) 300 年 〜 A D ( Anno Domini ) 300 年 ] は、狩猟時代とは異なり原野の開墾や農耕に従事するようになりましたが、そこには多くの人手が必要になり自然に集団 ( 集落 ) が形成されるようになりました。
また農耕が発達するのに伴なって集団の中には貧富の差が生じ、人びとの間には有力者の リーダー が生まれ、人口増加に伴い農地を拡大するために耕作に適した土地の獲得や、高床 ( たかゆか ) 倉庫に蓄えられた収穫物の配分をめぐり、他の集団との間で武力衝突が発生するようになりました。写真は佐賀県 ・ 神埼郡にある、弥生時代の 吉野ヶ里 ( よしのがり ) 遺跡にある高床倉庫です。 弥生時代とは集団同士の武力抗争( 戦争 ) が著しく増加した時代でもありましたが、中国の歴史書に日本の国に関する記述が初めて登場したのは、 紀元 82 年頃に成立した 漢書 ( かんじょ ) 地理志 です。
樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云とありましたが、そこには紀元前 ( BC ) 100 年頃の日本が 倭 ( わ ) と呼ばれ、100 ヶ国ほどの小国に分かれ、漢の武帝が紀元前 108 年に設置し西暦 313 年まで朝鮮半島に存在した、漢王朝に属する 四郡 ( 役所は現 ・ ピョンヤン付近 ) の一つである、 楽浪郡 ( らくろうぐん ) に朝貢していました。
卑弥呼 ( ひみこ、170 年頃 ? 〜 248 年頃 ? ) の時代の兵士については、三国志にある通称 魏志倭人伝 ( ぎしわじんでん ) には以下の記述があります。
兵用矛楯木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃
とありました。 右は弥生時代に近畿地方を中心に分布し、遺跡から出土した 銅鐸 ( どうたく ) とよばれる 青銅器製の祭具 にあった文様 ( もんよう、図柄 ) ですが、狩りをする右端の男が持つ弓の持ち方がそれで、下を短く上を長くして持っています。 ( 1−1、律令制における軍団 ・ 兵士 ) 645 年に起きた古代政治史上最初の クーデターである 乙巳の変 ( いっしのへん ) の成功により 大化改新 ( たいかの かいしん ) がおこなわれました。律令制の下で中央集権的政治がおこなわれ、 中央では 八つの省が設置されましたが、そのうちの 一つに兵部省 ( ひょうぶしょう ) があり、武官人事を担当しました。
また唐の兵制に習って各地に軍団が置かれましたが、軍団は 3 〜 4 郡ごとに設置され、最初は 21 才以上 60 才以下 の公民男子の 3 人 〜 4 人に 1 人が正丁 ( せいてい、兵士 ) として徴発され、武芸の訓練を受け戦闘に備える規定でした。当時は刀もありましたが、戦闘における主な武器は弓矢でした。 ( 1−2、防人の徴発 ・ 配備 ) 朝鮮半島中西部にある河川の白村江 ( はくそんこう、現 ・ 群山付近の錦江 ) の戦いで、 663 年に 唐 ・ 新羅の連合軍に敗れた日本は、朝鮮半島からの侵攻に備えるために、664 年から対馬 ・ 壱岐 ・ 筑紫 ( ちくし、九州北部 ) に 最多で 2,000 人の防人 ( さきもり ) を配備しましたが、軍団兵士の中から選び任期は 3 年で兵士の装備は自己負担、現地では空き地を農耕して食糧を得ました。 ところで 万葉集、巻 二十 には、「 天平勝宝 七歳 ( 756 年 ) 乙未 ( きのと ひつじ ) 二月、相替へて筑紫の諸国に遣はさるる防人等が歌 」 と題して、防人の歌が 八十 数首、記されていますが、その中に国造小県の郡の他田舎人大島 ( くにのみやつこ ちひさがたの こほりの をさたの とねり おほしま ) が詠んだ歌があります。 ( 4401 番 ・ 田舎人 大島の歌 ) ちなみに長野県 ・ 小県郡 ( ちいさがたぐん ) は昭和 19 年 ( 1944 年 ) 当時、東京に住んでいた小学校 5 年の私が米軍機の空襲を避けるために、山奥の寺に 学童集団疎開 をした地でした。そこから九州へ防人として派遣された、 父子家庭の男 が詠んだ歌があります。
[ 万葉仮名で書かれた原文 ]という悲しい歌ですが、残された子供達は誰かが面倒を見たのでしょうか?。それと共に旅行中の宿舎は用意されていたものの、食糧は全て自前でしたので、中には長旅の途中で餓死する者もいたといわれています。 ( 1−3、軍団の編成 ) 718 年の養老令 ( ようりょうりょう ) の軍防令による軍団の規模には、国により地域により大小あるものの、原則として兵士 1,000 人を 1 軍団とし、その編成は主に豪族の中から任用された軍団の指揮を司る 大毅 ( だいき、軍団長 1 人 ) と 少毅 ( しょうき、副軍団長 2 人 ) を頂点にしていました。 1,000 人の兵士から成る大規模軍団に対する指揮 ・ 訓練については、事務を担当する主帳 ( さかん ) ・ 200 人 の部下を持つ校尉 ( こうい ) ・ 100 人 の部下を持つ旅帥 ( りょそち ) ・ 50 人 の部下を持つ隊正 ( たいせい ) など、下表のような職制と 指揮官の数で成り立っていました。
そこで桓武天皇は 792 年に軍団制を廃止し、代わりに 健児制 ( こんでい せい ) を採用しましたが、この制度はその地方の 一般兵士 ・ 郡司や富裕者の子弟 ・ 農民の中から選ばれた、 身体強健で武芸に優れた健児 ( こんでい )から成る、いわば精鋭部隊を創設して諸国の国府 ・ 兵庫などの警備に当たらせました。 ( 1−4、武士という言葉 ) 武士とは平安時代中期から江戸時代末期まで存在した、武力をもって地方を支配し公権力に仕える者のことですが、日本の歴史書に 武士という言葉 が初めて登場したのは、 平安時代初期 ( 797年 ) に編纂された勅撰の史書である 「 続日本紀 」 ( しょくにほんぎ ) においてでした。その巻 八、 元正 ( げんしょう ) 天皇 ・ 養老 5 年 ・ 正月 ・ 甲戌 ( きのえ いぬ、27 日 ) の条に
詔曰、文人 武士 国家所重医卜方術古今斯崇 ( 以下省略 )とあるのがそれです。 当時は 757 年から施行された養老律令 ( ようろう りつりょう ) の時代でしたので、「 文人 」 に対比して 「 武士 」 と云うよりは、むしろ 「 武官 」、つまり 令制 ( りょうせい ) では宮中の内外を守護し、武事に携 ( たずさ )わる 衛府 ( えふ、警備を司る役所 ) の官 の意味でした。 ( 1−5、律令制の崩壊 ) 飛鳥時代の 646 年に大化改新の詔 ( みことのり ) により発足した律令制も、奈良時代の 701 年に制定された大宝律令 ( たいほう りつりょう ) により制度が完成しました。全国民を戸籍に登録し性別 ・ 年齢別に口分田 ( くぶんでん ) を割り当てる 班田 ( はんでん ) と、そこから租税を取る 収受 ( しゅうじゅ ) の方法でしたが、さらに調 ( ちょう ) ・ 庸 ( よう ) ・ 雑徭 ( ぞうよう ) ・ 兵役の義務を課しました。
ところが税負担がかなり高かったうえに、役人や有力者が良い田を割り当てられ、一般農民には悪い田を割り当てるなどしたために、農民は生活に困窮し租税負担に耐えられずに 村から逃散 ( ちょうさん ) したり、有力者の下で私奴 ( しぬ、家内奴隷 ) として生きる方法を選ぶ者もいましたが、ちなみに森鴎外の小説山椒大夫 ( さんしょうだゆう ) にも出てくる私奴 ( しぬ ) の数は、人口の約 5 パーセントといわれていました。 国の課税対象となる公田 ( こうでん / くでん ) が次第に減り税収が減少したために、新たに土地を開墾して田にする墾田 ( こんでん ) を奨励するため、開墾者 ( かいこんしゃ ) から 三世代 ( 本人 ・ 子 ・ 孫 ) までの墾田私有を認めた 三世 一身法 ( さんぜ いっしんのほう ) を制定しました。 さらに 自分で新しく開墾した田地の永年私財化を認める 墾田永年私財法 ( こんでん えいねん しざいほう ) が 743 年に制定されたことなどにより、貴族や寺社 ・ 豪族による 「 田地 」 の大規模な開墾 ・ 買収 ・ 占有をもたらしました。 しかし重税のため農民が逃散 ( ちょうさん ) し放棄された農地を、新たに開墾した田地と偽り私物化する権力者がいるなど、公領 ( こうりょう、おおやけの土地 ) が減る代わりに私人の所有地である私田 ( しでん ) だけが急速に増えると云う事態になりました。 これによりすべての土地と人民は天皇のものと律令に規定された 公地公民制の大原則 が崩れ、律令体制が衰退し 10 世紀には崩壊してしまいました。これ以後、律令政治 ( りつりょうせいじ ) が乱れ、朝廷の力が次第に弱体化し、代わりに貴族の力が強くなっていきました。 つまり 朝廷の政治支配の弱体化−−貴族の勢力拡大 ( 摂関政治 )−−武士階級の台頭 ( 院政の時代 )−−武士の時代 へ移行と、時代は変化して行きました。
[ 2 : 皇族の賜姓降下 ]皇族に姓を賜り臣籍に降下させる 賜姓降下 ( しせい こうか ) は、律令制の 「 継嗣令 」 ( けいしりょう ) によれば 六世代以降と定められていましたが、その後 皇族たちの子孫の数が多くなったために、六世代以前にも臣籍降下がおこなわれるようになり、慣例として 三世代以降でも行なわれました。その慣例を破ったのが第 52 代、嵯峨天皇 ( 在位 809〜823 年 ) でしたが、彼は自分の子供である皇子 ・ 皇女 32 名 に、姓を与えて臣籍に降下させる賜姓降下をおこないましたが、皇族である女子が臣下に嫁 ( か ) すことで皇族でなくなる場合は、 臣籍降嫁 ( しんせきこうか ) とも言いました。 大量に賜姓降下が生じた理由は、父親の第 50 代、桓武天皇にありました。桓武帝が平城京 ( 奈良の都 ) から 784 年に長岡京へ遷都 ( せんと、都を移す ) し、さらに 10 年後の 794 年に、今度は平安京 ( 京の都 ) へ遷都したことによる莫大な出費が律令国家に財政的欠乏をもたらしました。 同じく 桓武帝がおこなった 三回にわたる東北平定のための蝦夷征伐 ( えぞせいばつ ) もそれに拍車を掛けましたが、それらが後の天皇家に対して緊縮財政の必要性を高め、皇族の賜姓降下を積極的にもたらしました。 源氏と平氏の先祖が皇統から賜姓降下 したのも、この制度に依るものでしたが、その場合に第 1 ・ 第 2 世代 ( 臣籍降下した皇族本人と ・ その子 ) までは上流貴族として朝廷での地位を保証されましたが、第 3 世代 ( 孫 ) 以降になると次第に序列 ・ 位階が低下して下級貴族となり収入面でも減少したので、地方に国司 ( こくし、行政長官 ) として赴きそこで土着して暮らす者が増えました。 ちなみに前述した奥州藤原氏の遠い先祖である藤原頼遠は、諸系図によると 「 太郎太夫、 下総国 ( しもふさのくに、現 ・ 千葉県東部 ) の 住人 」 であったと記されていますが、陸中国 ( 現 ・ 岩手県 ・ 西磐井郡 ・ 平泉町 ) に移住した経緯はよく分かっていません。
下表は律令 ( りつりょう ) に規定された貴族の序列と位階 ( 階級 ) ですが、当時 30 位まであったものを 21 位以下は省略しました。 なお京都御所における 殿上人 ( てん じょうびと )、つまり公卿 ( くぎょう ) や 上流貴族 とは、下表の濃い ピンク 印の 「 従三位 」 ( じゅさんみ ) 以上 の者を指しますが、天皇の日常の居所である清涼殿 ( せいりょうでん ) にある殿上の間 ( てん じょうのま ) に原則として昇殿が許されました。
しかし 四位 ・ 五位の貴族の中では、特に許された者にだけ昇殿などの特権が与えられましたが、一般に国司 ( こくし、現 ・ 県知事 ) の官職に与えられる上図で カーキ色の 従五位下 ( じゅごいげ ) 以上の位階が平安時代には 貴族としての資格 であり、六位以下 無位までの者を 「 地下 」( じげ ) もしくは「 地下人 」と呼びました。 ( 2−2、反乱の鎮圧がもたらした、武士の昇殿 ) これまで武士とは関係が無いと思われる位階について 長々と述べましたが、天皇の日常の居所である清涼殿への昇殿など、低い身分であった武士階級にとっては長年叶えられなかった夢でした。
ところがその機会をもたらしたものが 承平 ・ 天慶の乱 ( じょうへい ・ てんぎょうのらん ) でした。10 世紀前半に 平 将門 ( たいらの まさかど ) ( ? 〜 940 年 ) が関東で反乱をおこし、常陸 ( ひたち、茨城県 ) ・ 下野 ( しもつけ、栃木県 ) ・ 上野 ( こうずけ、群馬県 ) の国府 ( こくふ、政庁 ) を占領し、東国に独立国を作る野望を抱き、自らを 新皇 ( しんのう、新しい天皇 ) と名乗る という事件が起きました。 右上の写真は 平 将門が本拠を構えた地として知られる、茨城県 ・ 坂東市 ( 旧岩井市と猿島町が平成 17 年に合併 ) の総合文化 ホール前に建てられた 平 将門の銅像です。 ほぼ同じ頃に瀬戸内海でも伊予の掾 ( いよの じょう、現 ・ 愛媛県副知事 ) として任地に下った 藤原純友 ( ふじわらの すみとも )( ?〜941 年 ) が、瀬戸内海の海賊を率いて日振島 ( ひぶりじま、愛媛県 ・ 宇和島市の西方沖 ) を根拠地にして反乱を起こし、一時は瀬戸内海全域と九州の一部を支配しました。 これに対して「 身辺警備などのいわば警察力 」 のみで、直属の軍事力を持たなかった朝廷 ・ 貴族たちは自力で解決する手段もなく、日頃は武士のことを 「 殺生を業 ( なりわい ) とする賤しい者 」 として官位の低さから軽蔑していましたが、彼らの軍事力に頼る以外に解決方法がありませんでした。
そこで 平 将門 ( たいらの まさかど ) の首に 五位以上の位階と田地を恩賞として与える約束 をした結果、 将門 は平 貞盛 ( たいらの さだもり ) らに討伐され、藤原純友は警固使 ( けいごし、交通の要所を守る役 ) の橘 遠保 ( たちばなの とおやす ) らに平定されたので、朝廷と貴族は次第に武士の軍事力を認めそれに頼ることになりました。絵は討伐軍の焼き討ちに遭う、純友の海賊船。 承徳 2 年 ( 1098 年 ) には 源 義家 ( みなもとの よしいえ、通称 ・ 八幡太郎義家 ) が白河上皇に対するこれまでの忠勤 ・ 功労により、 白河院 ( 白河上皇が院政をおこなう庁、役所 ) への昇殿 を初めて許されました。
さらに天承 2 年 ( 1132 年 ) には平 清盛の父の 平 忠盛 ( たいらの ただもり、 ) が山陽 ・ 南海道 ・ 西海の海賊を討伐した功績により、 武士として初めて 清涼殿への昇殿 を許されましたが、やがて武士の時代の到来を告げることになりました。右は京都御所内にある清涼殿です。
「 源 」( みなもと ) の出典については 「 魏書 ・ 巻 41 ・ 列伝 29 源賀 」 に、中国の北魏の太武帝が同族の河西王の子である 「 賀 」 の容貌が立派で行儀作法をよくし、万事につけて優れていたために 賀 を 「 西平侯 」 に任じましたが、その際の彼の発言として、
卿與朕源同という中国の故事がありました。中国の文化に親しんでいた第 52 代、嵯峨天皇 ( 在位 809〜823 年 ) がこの故事を知っていて、そこから 源 ( みなもと ) の姓を賜姓降下に採用したのだそうです。 清和 ・ 陽成 ・ 光孝天皇の 三代にわたる 30 年間の歴史を記し 901 年に完成した歴史書の、 「 三代実録 」 ( さんだい じつろく ) によれば、嵯峨天皇の 七男である 源 信 ( みなもとの まこと ) が 814 年に 賜姓降下して、源氏と称した 第 1 号 でした 。 ( 2−4、平氏のはじまり ) 源氏と同様に平氏にも、第 50 代、桓武天皇 ( 在位 781〜806 年 ) から出た 桓武平氏 ( かんむ へいし ) 、第 54 代、仁明天皇から出た仁明 ( にんみょう ) 平氏、第 55 代、文徳 天皇から出た文徳 ( もんとく ) 平氏、第 58 代、光孝天皇から出た光孝 ( こうこう ) 平氏など多くの系統ありましたが、後世に残ったものは葛原 ( かつらはら ) 親王の系統を受け継ぐ桓武平氏だけでした。 参考までに 「 平 」 ( たいら ) という姓の由来については諸説ありますが、桓武平氏の先祖である桓武天皇が 794 年に、山城国 ・ 乙訓郡 [ おとくにぐん、現 ・ 京都府 ・ 向日市 ( むこうし )〜 長岡京市 〜 京都市 ・ 西京区 ] にあった長岡京から遷都した平安京 ( 現 ・ 京都市 ) にちなんで、 平 ( 訓読みで、 多比良、たひら ) と名付けたとする説が有力でした。
[ 3 : 下級貴族の東国移住 ]平安時代といえば紫式部 ( 973 頃〜1014 年頃 ) の源氏物語、清少納言 ( 966 頃〜1025 年頃 ) の枕草子などの著作に記された王朝文化の最盛期でしたが、すべての貴族がこの世の春を謳歌 ( おうか、声を揃えて褒め称える ) したわけではありませんでした。天皇家を中心としてそれを支える摂関家 ( せっかんけ、摂政と関白に任ぜられる身分の高い家柄 ) の、たとえば藤原氏が長年実質的な権力を握りましたが、そのために宮廷の重要な役職は藤原氏の出身者にほぼ独占されてしまいました。御堂関白記 ( みどうかんぱくき、998〜1021 年に至る日記 ) を記した藤原道長( ふじわらの みちなが、966〜1028 年 ) は、従一位 ・ 摂政 ・ 太政大臣 の位階 ・ 官を得たものの 関白にはなれませんでした。しかし後に御堂関白 の異名で呼ばれましたが、長女の彰子 ( しょうし ) を 一条天皇の、次女妍子 ( けんし ) を 三条天皇の、三女威子 ( いし ) を 後一条天皇のそれぞれ皇后にして、三代にわたり天皇家の外戚 ( がいせき、母方の親戚 ) として権力を振るいました。彼が三女を 11 才の後一条天皇へ女御として入内させ、中宮とした 1018 年に詠んだ有名な歌があります。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へばこれに対して身分の低い家柄の下級貴族の中には、都での立身出世を諦めて地方の国司 ( こくし、狭義には現 ・ 県知事 ) などに任官し、任期を終えても帰京せずにその地に住み続けて土着し、あるいは都を捨てて地方に活路を求めて移住する者も現れました。都では出世の道を閉ざされた下級貴族 ( 賜姓貴族の子孫を含む ) でも、地方に行けば尊敬される存在だったからでした。 ちなみに源氏は東国、平氏 ( 平家 ) は西国を勢力範囲としたのは後年のことであり、 最初は源氏も平氏もその多くが東国を主な移住 ・ 活躍の場に選びましたが 、その理由は都から遠く離れた東国では律令政府による統制が不十分で、自分たちが耕した土地がそのまま自分の領地になるなど、有利なことが多かったからでした。
[ 4 : 武士の起源 ]武士の起源には大別すると 貴種系 ( きしゅ けい ) と、在地系 ( ざいち けい 、換言すれば地方の豪族系 ) の 2 種類がありました。( 4−1、貴種系、武士について ) 貴種とは高貴な家柄の生まれやその血筋を引く人の意味ですが、前述した清和天皇の流れを汲む清和源氏や、桓武天皇の流れを汲む桓武平氏などがそれに該当しました。 源氏に例をとると天皇家の皇統から前述の賜姓降下 ( 臣籍降下 ) した先祖により、第 52 代、嵯峨天皇から出た嵯峨 ( さが )源氏、第 56 代、清和天皇から出た清和 ( せいわ ) 源氏、第 59 代、宇多天皇から出た、宇多 ( うだ ) 源氏、第 60 代、醍醐天皇から出た醍醐 ( だいご ) 源氏、第 62 代、村上天皇から出た村上源氏など多くの系統がありました。 その中で最も有名なのが清和天皇 ( 在位 858〜876 年 ) の孫に当たる経基王 ( つねもと おう ) が 「 源 」( みなもとの 姓 )を賜り、臣籍に降下して創設した 清和源氏 ( せいわ げんじ ) でした。 その子の満仲 ( みつなか ) は摂津国 ・ 川辺郡 ・ 多田庄 ( ただのしょう、現 ・ 兵庫県 ・ 川西市 ・ 多田 ) に土着しましたが、沼地を開拓して多くの田畑を造成して荘園を形成し、河川の改修、鉱山事業など殖産興業に力を注ぎ、国力の増進と源氏繁栄の基礎を築きました。さらに武芸に励むと共に兵力を養い、都の貴族と連絡をとり、戦乱の場合には戦闘に参加する体勢をとりました。
清和源氏出身の著名な武士には 源 満仲 ( みなもとの みつなか ) をはじめ、 摂関家 ( せっかんけ、後述 ) と結んで勢力を伸ばし 、大江山の鬼退治をした源 頼光 ( みなもとの よりみつ )、平安時代中期に平 忠常 ( たいらの ただつね ) が関東で起こした反乱を、 1131 年に平定した追捕使 ( ついぶし ) の 源 頼信 ( みなもとの よりのぶ )、東国における源氏の勢力を強化した 源 頼義と義家 ( 八幡太郎義家 ) などがいました。 写真は清和源氏発祥の地といわれている、兵庫県 ・ 川西市 ・ 多田 ( 旧 ・ 多田庄、荘園 ) にある多田神社です。 ( 4−2、在地系、武士について ) 貴種系の武士とは異なりその成立過程において、京の都とは無縁であった地方の有力者出身の武士がいました。それらは 10〜11 世紀の農村を母体として生まれましたが、その発生理由の一つとして律令下の兵制が、 それまでの軍団制から 792 年に健児制 ( こんでいせい ) に変更されたことが挙げられます。 前述したように健児制とはその地方の 郡司や富裕者の子弟 ・ 農民出身兵士の中から選ばれた、身体強健で武芸に優れた者を健児 ( こんでい )とし、精強な兵士に育成するために武芸を訓練し兵士に専従させましたが、そこから地方の有力者が武技を練り武士化することにつながりました。 それを助長したのが 10 世紀以後の律令制に基づく土地制度の崩壊でした。全国的に土地の荘園化や朝廷の領地を国司が管轄する国衙 ( こくが、役所 ) 体制への移行が始まり、在地有力者による未開の土地の開墾が進み経済力を増強し、広大な 「 私的領地 」 つまり荘園 ( しょうえん ) を持つようになりました。 これらの荘園領主は弱肉強食の時代に自らの土地を侵略 ・ 強奪から守るために、やがて兵を養い軍事力を蓄えるようになりましたが、これが在地系武士の始まりになりました。 ( 4−3、武士団の形成 ) 彼らは一定以上の戦力を確保するために、自分に従う者を 「 郎党 ( ろうとう ) 」 と呼んで主従関係を結びましたが、在地系武士が主人であり郎党が従であることはいうまでもありませんが、郎党は武士と同様に騎乗する権利があり戦闘に参加する義務がありました。郎党の出身を見ると、下人 ・ 所従 ( しょじゅう、武家に隷属する者 ) から郎党になった者もいれば、百姓身分の健児 ( こんでい ) だった者が、在地系武士と主従関係を持って郎党となった者もいました。 郎党と同様、武士に従いながら戦闘に参加したのが 「家の子」( 子弟 ) でした。家の子と郎党の差異は、家の子が武士の 一族 ・ 子弟であり、血縁関係を有していたのに対し、郎党はそうでなかったという点にあります。 当初は各自 バラバラだった武士も、次第に力を合わせて集団を形成するようになり、やがて 一つの集団としての 武士団の誕生 となりました。 最初は武術に関する知識だけでした武士たちも、この頃になると和歌などの教養を身につけるようになり、やがて彼らは 「 家の子と、郎党 ( ろうとう ) 」 のように主従関係の封建的なつながりを次第に確立していき、武士は武士の倫理を作っていきました。
より高い権威、より強い武力を持つものを中心にしてまとまるようになり、朝廷や都の貴族にとっても無視できない力を持つようになっていきましたが、右の絵で馬に乗るのが武士や郎党で、歩いて従うのが 下人 ( げにん ) や 所従 ( しょじゅう ) です。
当時の武士にとって戦闘の基本とは 騎乗弓射 、( きじょう きゅうしゃ ) 、つまり馬に乗って敵の射掛ける矢をかわしながら、同じく馬上にある敵の武者を弓矢で射倒すことでした。 もちろんどちらも鎧 ( よろい ) を着て兜 ( かぶと ) を被っているので、その狙い所は 「 鎧や兜の隙間 」 でした。これを走る馬の上から狙うので、非常に難しい技術でした。
互いに相手を狙い、自分も狙われる最大の急所は 内兜 ( うちかぶと ) と呼ばれる、兜の庇 ( ひさし ) の下から覗いている 「 額 」 でした。そのため馬を走らせる武者は前傾姿勢になって兜を傾けていなければなりません。しかし矢を射る際には必ず上体を起こすために兜の庇の間から額や顔が見えてしまうので、一の矢を放った後、二の矢を番 ( つが ) えて射るまでの間は、兜を傾けていないと 「 内兜 」 を射られる危険があります。 武者同士が矢を防いだまま接近遭遇をしてしまったら、今度は馬に乗ったままの組み打ち 「 馬上格闘戦 」 となり、これに負けて馬から落とされれば、首を打たれる運命が待っていました。この戦闘を 馳組軍 ( はせくむいくさ ) といいましたが、ここで最も重要なことは 「 馬から落ちないこと 」 でした。 延慶 ( えんぎょう、1308〜1311 年 ) 年間に写本された 延慶本の平家物語、巻 五 によれば、
昔様 ( むかしさま ) には馬を射事はせざりけれども中比 ( なかごろ ) よりは先 ( まづ ) しや馬 の太腹を射つれば、はねおとされてかち立ちになり候。近代はやうもなく押並て組て中に落ちぬれば、大刀 ( たち ) 腰刀にて勝負は候也。 その理由については 「 平治物語 」、「 源平盛衰記 」 によれば、 「 近年は敵を射るに隙間なければ 」 と記されている様に、相手が弓矢に対して防御性の高い大鎧 ( おおよろい ) を着ているためでした。 右は室町幕府の初代将軍 ( 在職、1338〜1358 年 ) になった足利尊氏 ( あしかが たかうじ ) 仕様の、黒糸縅 ( くろいと おどし = 鎧の札 ( さね、鎧を構成する鐵や革の小板 ) を革や糸でつづり合わせること ) の大鎧ですが、ちなみに
将を欲すれば、先ずその馬を射よという 「 ことわざ 」 がありますが、中国唐代の詩人である杜甫 ( とほ ) の 五言律詩 「 前出塞九首 」 、その 六 にある、 挽弓當挽強 、弓を挽 ( ひ ) かんとせば当 ( とう、注 : 参照 ) に強きを挽 ( ひ ) くべし。 用箭當用長 、箭 ( せん、矢 ) を用いんとせば当に長きを使うべし。 射人先射馬 、 人を射んとせば先ず馬を射よ に由来するものでした。
注 : 当 )
神社などで今も流鏑馬 ( やぶさめ ) の行事がおこなわれますが、方形の板を串にはさんで立てた三つの的を、馬に乗って走りながら順々に鏑矢 ( かぶらや、風を切って音を出す矢 ) で射るものです。 平安時代末から鎌倉時代にかけて盛んにおこなわれ、しばしば神社に奉納されましたが、もともとは騎射訓練の目的でした。
前述した ( 4−3 ) にある絵図にもありますが、馬に乗る武士には必ず長刀 ( なぎなた ) を持つ従者 ( 歩兵 ) が従いましたが、長刀は平安時代から主に僧兵や歩兵が使用し、合戦においては敵の騎馬武者が乗る馬の足を払い斬るのにも使用しました。しかし槍 ( やり ) が発明され戦国時代に戦闘で使用されるようになると、長刀 ( なぎなた ) は次第に すたれていき、江戸時代には女性用の武器になりました。
[ 5 : 坂東平氏と、伊勢平氏 ][ 平 清盛の系図 ]桓武天皇−−葛原親王−−高望王 ( 平を賜姓 )−−坂東 八平氏−−伊勢平氏−−平清盛に至る 坂東平氏 ( ばんどうへいし ) とは、桓武平氏の系統に属する高望王が賜姓降下して 平 高望 ( たいらの たかもち ) となり、 898 年に上総介 ( かずさのすけ、現 ・ 千葉県副知事 )に任じられ、坂東 ( ばんどう、注参照 ) に下向 ( げこう、都から地方へ行くこと ) しましたが、その際に彼は国香 ・ 良将 ・ 良文の 3 人の息子を伴い赴任し、後に側室の男の子も任地に呼び寄せました。
注 : 坂東 ( ばんどう ) とは平 高望は上総介 ( かずさのすけ ) の任期が過ぎても帰京せず、上総国 ( 千葉県中部 ) ばかりでなく常陸国 ( 茨城県 ) や下総国 ( 千葉県北西部 ) にも勢力を拡大し、彼の子孫たちも坂東 ( 関東 ) 各地で荘園領主となり、後に 坂東 八平氏 ( ばんどう はちへいし ) と呼ばれる武士団を形成しました。 それらは秩父氏 ・ 上総氏 ・ 千葉氏 ・ 中村氏 ・ 三浦氏 ・ 鎌倉氏の他に、これらの諸氏から派生した土肥氏 ・ 梶原氏 ・ 大庭氏 ・ 長尾氏などが入りますが、数え方はその時々の各氏族の勢力により様々です。 しかし東国の平氏たちは、清和源氏の系譜に属する源 頼信を祖とする河内国 ・ 古市郡 ・ 壷井 ( 現 ・ 大阪府 ・ 羽曳野市 ・ 壷井 ) を本拠地とした 河内源氏 ( かわち げんじ ) の一部が関東に移住し勢力を拡大したために、それに抵抗して滅ぼされるか、あるいは源氏の一門に従属して家臣になる者もいました。 しかし平氏の 一部にはそれを嫌って東国から再び伊勢国に本拠地を移す者もいましたが、これが 伊勢平氏の始まりでした 。結果的に坂東八平氏ともいわれた東国に移住した武家の平氏は、歴史上目立った成果を残さなかったのに対して、伊勢に移住した伊勢平氏の流れを汲む 平 正盛 ( たいらの まさもり、祖父 )−−忠盛 ( ただもり、父 )−−清盛 ( 子 ) は武力をもって時の天皇 ・ 貴族に仕える、いわゆる 軍事貴族になりました。 貴族といえば聞こえが良いのですが、最下級の軍事貴族であり端的にいえば、現代の ガードマンや番犬の役割でした。
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