トイレの話

「 日の丸、君が代 」 の次の題目に トイレのことを取り上げるとは、そのあまりの落差に我ながら恥ずかしくなりますが、日頃あまり 活字では目にしない 「 糞尿 」 ・ 汚穢 ( おわい ) ・ 「 立ち小便 」 などの下品な言葉に嫌悪を感じる方は、これ以上読むのを止めてください。

[ 1:世界最古の水洗便所 ]

エジプト文明 ・ インダス文明 ・ 黄河文明と共に世界四大文明のひとつに数えられる古代 メソポタミア文明は、紀元前 3,000 年頃までに誕生しましたが、メソポタミア ( Mesopotamia ) とは ギリシャ語で 二つの川の間の土地 の意味であり、 ティグリス ( Tigris ) 川と ユーフラテス ( Euphrates ) 川に挟まれた地域 ( 現在の イラクを中心に、シリア北東部、イラン南西部を含む ) に、 シュメール人により都市国家が作られました。

アッカド遺跡

以後 メソポタミアでは 、バビロン ( Babylon )、アッカド ( Akkad )などの王朝が楔形 ( くさびがた ) 文字、灌漑 ( かんがい )、太陽太陰暦、六十進法などを発明 ・ 発達させ興亡の歴史を繰り広げましたが、メソポタミア南部にある アッカド王朝の宮殿跡 ( 紀元前 2,300 年頃 ) からは、下水道を使い排泄物を流す 世界最古の水洗便所の跡 が発見されました。

排水溝

現在の パキスタン北東部 ・ ラホールの南西 200 キロメートルにある インダス文明 ( 注参照 ) の古代都市遺跡である ハラッパー ( Harappa ) や 、同じく南部の インダス川 下流の サッカル近郊にある 都市遺跡 モヘンジョ ・ ダロ ( Mohenjo Daro ) には公共浴場や下水道が整備された市街地の遺跡があり、そこでは腰掛け式の水洗便所が普及していました。写真は モヘンジョ ・ ダロ遺跡にある完備した排水溝です。

注:)
インダス文明とは紀元前 2,500 年頃から前 1,500 年頃まで、ヒマラヤに水源を発し パキスタン東部を南に流れ アラビア海に注ぐ、全長 2,990 キロメートルの インダス ( Indus ) 川やその支流域に栄えた青銅器時代の文明のことです。

黄金虫糞ころがし

ところで古代 エジプト人は黄金虫 ( こがねむし ) を彼らが崇拝する偶像の中に加えていましたが、その理由は恐らく排泄物が持つ肥料としての作用を既に知っていたからであり、スカベラ ( 糞ころがし ) に代表される黄金虫がする糞便処理の役割を、崇めていたからといわれています。

[ 2:古代 ローマ と アテネの、都市衛生の違い ]

地中海の古代都市文明に関しては、古代 ギリシャの アテネ、スパルタなどの都市は下水道の設備どころか便所の設備も乏しく、 中世における ヨーロッパの市街同様に 排泄物の路上投棄や、路上への排泄がおこなわれ 、都市の衛生状態は極めて悪い状態でした。

水洗トイレ

これに対して イタリアの古代都市 ローマでは住宅の洗面所、浴室、便所はすべて下水道に通じていましたが、この下水道は 紀元前 5 世紀〜前 3 世紀 にかけて整備されたといわれています。ローマは背後に横たわる アペニン山脈からの豊富な水に恵まれ、水道、下水道を備えていたほか、カラカラ浴場に代表される 公衆浴場が ピーク時には約 1,000 箇所、水洗式の公衆便所が 100 箇所 を数えました。

水道橋

右の写真は ローマにある遺跡ではなく、古代 ローマ帝国が支配した当時の スペインに作られた遺跡の 水道橋 ( アクアダクト、Aquqduct ) ですが、紀元 1 世紀に作られ 1884 年までこの橋の最上部を流れる水を、タラゴナ市内の給水に使用していました。

[ 3:日本の場合 ]

一説によれば、人間が 24 時間に排出する尿の量は約 1,000 〜1,500 C C だそうですが、これは年間で平均すると 450 キログラムになります。

金糞

大便に関しては 「 肉食系 」 の欧米人は量がやや少ないものの、 「 草食系 」 である日本人の場合は、 1 日当たり 150〜200 グラム 排泄するといわれていて、これはもちろん食事の質 ( 消化されにくい繊維物質の多少 ) や量などによりかなり異なることはいうまでもありません。

水上トイレ

便所のことを 「 かわや 」 とも呼びましたが、これは日本書紀や万葉集にも記されている古い言葉で、本居宣長が記した随筆集 「 玉勝間 」( たまかつま ) によれば、語源は右図のように川の上で用便をしたことによる 川屋 ( 水上の トイレ ) であるとしました。しかし別の説によれば母屋 ( おもや ) に対して、用便や糞尿の肥料貯蔵庫を兼ねた意味の 側屋 ( かわや ) に由来するとしました。

それ以外にも便所の呼び名については御不浄 ( ごふじょう ) 、手水場 ( ちょうずば ) 、後架 ( こうか )、閑所 ( かんじょ ) などいろいろありますが、雪隠 ( せっちん ) は禅寺の便所にある扁額 ( へんがく、横に長い額 ) に由来する語とされます。

禅寺に作られた便所はその位置により決まった呼び名があり、東にあるのを東司 ( とうす )、西にあるのを西浄 ( せいじょう )、南にあるのを登司 ( とす )、にあるのを雪隠 ( せっちん、 ) と呼びました。日本の家屋は一般に南向きが多く、したがって便所は家屋の裏に当たる北側に多く設けられていたことから、北側の便所に該当する雪隠 ( せっちん ) の語が近世に広く普及し、今も雪隠詰 ( せっちんづめ、逃げ道のない所に追いつめる意味 ) などの言葉に残っています。

寝殿造り室内

ところで平安時代の貴族は 寝殿造り と呼ばれる建物に住んでいましたが、寝殿造りの構造は主屋である寝殿を中心にいくつかの建物が渡殿と呼ばれる廊下でつながっていて、内部は壁がない言わば ワンルームの板敷きでした。源氏物語絵巻で見るように間仕切りには屏風 ( びょうぶ ) や衝立 ( ついたて )、几張 ( きちょう ) を立てて私的 スペースを確保し、座るところには畳を敷いていましたが、注意すべき点は寝殿造りの 建物には トイレが 無かった こと でした。

では排泄の問題をどのようにして処理したのかといえば、古典文学史上にその名が輝く 紫式部も 清少納言も 、そして同時代に生きた藤原道長 ( 966〜1027 年 ) から −−−「 浮かれ女 ( め ) 」 −−−といわれた 和泉式部も 、  毎日 「 オマル 」 を使用したのでした

( 3−1、オマル )

「 オマル 」 の語源については日本書紀や古事記では排泄する 動作を 「 まる 」 といいましたが、これが次第に 「 まる 」 するのに使う便器のことを 「 まる 」 と呼ぶようになりました。「 お 」 がついたのは江戸時代とされますが、「 オマル 」 は女性用の言葉でした。

馬桶マートンオマルを運ぶ女

日本では小さい子供や病人しか使わない オマルも、韓国では ヨガン といい、今も嫁入り道具の一つです。中国の都市の古い住宅地域や地方に行けば、現在でも大人も子供も毎日 馬桶 ( マートン、オマルのこと ) を使用していますが、昔から各戸には便所が無く、しかも夜間は照明がない共同便所だからでした。写真は毎朝 オマルの中身を棄て掃除をする女性と、それを運ぶ人。

オマル

オマルは中国大陸から壺や桶などの形で日本に渡来しましたが、日本の貴族社会では木製の箱に変わり、 厠筥 ( しばこ ) 、樋筥 ( ひばこ )、 清筥 ( しのはこ ) 小便用の虎子 ( おおばこ ) と呼ばれるものができましたが、なかには ウルシ塗りの箱や紫檀 ( したん ) の木地に螺鈿 ( らでん、貝殻 )をちりばめた豪華なものまでありました。後に樋筥 ( ひばこ )で用を足す場所が固定されるようになり、そこを樋殿 ( ひどの ) と呼ばれるようになりました。

オマルの汚物をどこに棄てたのかは、一説によれば最初は家の近くや小川に棄てたものの、後には別棟に設けた糞尿溜に投棄しましたが、その後 床に穴を開けて底の無い オマルをはめ込み糞尿を床下に落とす方法、つまり和風 スタイルの便所ができたのは、平安末期に禅宗の影響を持つ建築様式である 「 主殿 ( しゅでん ) 造り 」 になってからのことでした。

[ 3−2、筥 ( はこ、大便 ) すべからず ]

6 世紀に中国から 陰陽道 が日本にもたらされましたが、律令制のもとでは災いを避け福をもたらす方術として重視され、陰陽博士 ( おんようはかせ ) や 「 うらない 」 ・ 暦 ・ 天文 などを司る役所の陰陽寮 ( おんようりょう ) ができました。

平安時代になると人の生き霊 ( りょう ) ・ 怨霊 による呪い ・ 物の怪 ( け )などが はびこり、病気や災厄をもたらすと信じられるようになりましたが、そのために災難 ・ わざわいから逃れるために日常生活で日 ・ 方角 ・ 作事の吉 ・ 凶、禍 ・ 福を占い、あるいは暦の記述に従い、物忌み ( ものいみ、注 1 参照 )、方違え ( かたたがえ、注 2 参照 ) 、を守り、災厄消除 ・ 招福を祈願しました。

注:1)
物忌み ( ものいみ ) とは、占いの結果や夢見が悪かったり、怪事に遭ったり、物の怪 ( け ) に取り付かれた時など、陰陽師の判断で一定期間外出せず、特定の建物で謹慎 ( きんしん ) しました。

注:2)
方違え ( かたたがえ ) とは、陰陽道の説により平安時代以降に行われた風習で、旅行、外出の際に目的地が禁忌 ( きんき、タブー ) の方角に当たる場合には、前夜に別の方角 ( 恵方、えほう ) に行って泊まり、方角を変えてから翌日に目的地に出発しました。日によって吉 ・ 凶、タブーが決まっていて、方角を無視して旅行などをすれば、一家が不幸に見舞われるとされました。

ところで 宇治拾遺物語 ( うじ じゅういものがたり、1212〜21 年頃成立の説話集 ) 五の 、「 仮字暦あつらへたる事 」 ( かなごよみ−−− ) によれば、ある貴人のところに若い女官がいましたが、出入りの僧に頼んで 仮名 ( かな ) 文字で書かれた自分専用の暦をあつらえました 。僧侶はまじめに作り始めましたが後になると面倒になったので、暦の注欄に 「 物喰わぬ日 」、「 腹膨 ( ふく ) るるばかりに喰う日 」 などと、なげやりに書きました。

ある日 ( 女官が自分専用にあつらえた暦を ) 取り出して見れば、「 筥 ( はこ、大便 ) すべからず 」 、と書きたり。 いかに ( どうして ) とは思へど、さこそあらめ ( そういうこともあるだろう )と念じて( 我慢して ) 過ごすほどに、長凶会日 ( ながくえにち、注参照 ) のやうに 「 筥 ( はこ、大便 ) すべからず 」、「 筥 ( はこ ) すべからず 」、 「 筥 ( はこ ) すべからず 」 と続けて書きたれば、

二日 三日までは念じて( 我慢して )ゐけるが、おほかた堪へるべきやうもなかりければ ( 我慢できる状態ではなくなったので )、左右の手して尻抱へて、「 いかにせん ( どうしよう )、 いかにせん ( どうしよう ) 」と ( 身を ) よぢり、すぢり( 身を曲げくねらせる ) するほどに、ものもおぼえず ( 意識も遠のき )、( 顔 ) 色、真青 ( まさを ) になりてあるとかや。はてはいかになりけん( その結末はどうなったのか )、知らず。

とありました。

注:)
凶会日 ( くえにち ) とは暦に書く 注釈の 一つで、月ごとに干支 ( えと ) によって 最凶となる日 のことで、それには 24 種類あり、それぞれ忌むべき事柄が定められている悪日のことです。それが連続することを長凶会日 ( ながくえにち ) といいます。

[ 4:不潔な ヨーロッパの市街 ]

高層建物17

ヨーロッパの都市部における住宅建築の際には、便所を作らずに 3〜4 階建てにしたために、2 階以上に住む住民は 便所 の代わりにやむなく オマル ( Chamber Pot ) を使用することになりました。 パリや ロンドンなどの都市では、上の階の住民たちは排泄物を棄てに 1 階まで降りてくるのが面倒なので 、窓から オマルの中身 ( 糞尿 ) を投げ棄てていたので、道路は汚物でぬかるみ、悪臭を漂わせていました。絵は 17 世紀における ロンドンの住宅街の様子です。

中世の フランスの場合には、多くの町には市場のごく近くに、不潔通り、汚穢 ( おわい ) 通り、尻下通り、厠 ( かわや ) 小路などと名付けられた通りがありましたが、 そこでは道端での排便、排尿がごく普通でした 。そこで 17 世紀に フランスの法務官達がこの青空便所を禁止しようとしたところ、民衆の間に不穏な空気が生じ、代表団が市庁舎に抗議に行きました。

お役人衆よ、我らの先祖はあそこで昔から用を足して ( 排泄して ) きた。我ら ならびに我らの子孫もまた、あの地で用を足すつもりである。

と市庁の役人に通告しました。

ちなみに 女性の ハイヒールは 17 世紀に フランスで発明されましたが、路上の糞便を踏む面積を少なくし、スカートの裾が汚染されるのを防ぐためであり、イギリスでは上から投げ捨てられる糞尿による服の汚れを防ぐために、紳士が外套を着用するようになったのだそうです。

窓から汚物を投げる

右の絵は 1783 年に描かれた イギリスの市街の様子ですが、左側の 2 階の窓から汚水を外に棄てています。 ロンドンに劣らず 17 世紀の パリ市街もひどいもので、昼夜の別なく窓から汚水、ゴミ、尿、大便も窓から道に投げ棄てる始末でした。その際に、

「 下の人、気をつけて !」、「 水にご用心! 」  
などの予告の声が響くのは、通行人が極めて運の良い時だけであり、オマルの中身を頭から浴びせられた高貴な人の例は数えきれずで、その中には 聖 ルイ王 ( Saint Louis、ルイ 9 世、1214〜1270 年 ) もいました。

朝早くから散歩していた 聖 ルイ王に オマルの中身を浴びせたのは学生でしたが、彼は夜明けから起きて勉学に励んでいたことを理由に、聖 ルイ王から役録を与えられました。窓から オマルの中身の投げ棄ては パリだけのことではなく、他の都市でも同様でした。

便器の模様

ところで 1855 年のこと、フランスのある ブリキ製品製造業者が セーヌ県 ・ 軽犯罪裁判所に呼び出されましたが、ある種の オマルを製造販売したのが理由でした。オマルの底には ホーロー引きの上に大きく見開かれた 1 個の眼が描かれ、そこには 「 私はあなたを見る 」 という言葉が書かれていたからでした。

当時 パリ市内の中心部には下水道が完成していましたが、彼の住む地区はその恩恵にはあずからない場所でした。 よく売れる オマルを作った彼を警察に チクッタ ( 密告した ) のは同業者でしたが、 「 わいせつ物 」 製造販売の罪で、彼は禁固 1 ヶ月を喰いました。

ドイツの革命家 ・ 思想家である エンゲルス ( Engels 、1820〜1895 年 ) が書いた 「 イギリスにおける労働者階級の状態 」( 岩波文庫 )によれば、1842 年当時の イギリスの産業都市 マンチェスターの様子について、次のように述べています。

町のこの部分には下水溝も、その他 家に属する排水口や便所もない 。そのため、少なくとも 5 万人から出る ゴミくずや排泄物がすべて毎晩側溝に放りこまれる。その結果、街路をどんなに清掃しても ひからびた糞便の山に悪臭が生じるために、視覚と嗅覚が害されるだけでなく、住民の健康も極度におびやかされる。

この状態が下水道の建設により改善されるきっかけになったのは、インドの ガンジス川流域の風土病でした コレラ が、世界的交通の発達と前述の劣悪な都市の生活環境によって 1817 年に最初の世界的な大流行を引き起こしたからでした。ロンドンでは 1854 年に大流行し、 14,000 人の コレラ患者 が発生しました。

しかし フランスだけは下水道建設が例外的に早く、18 世紀初頭から建設がおこなわれましたが、ヴィクトル ・ ユゴー ( Victor Hugo ) の小説 「 レ ・ ミセラブル、ああ 無情 」 の主人公 ジャン ・ バルジャンが パリの大下水道の中を傷ついた マリウスを背負って逃げた物語を記憶にあろうかと思いますが、そのときの環状下水道は 1740 年頃に完成しています。

[ 5:ベルサイユ宮殿の、穴あき椅子 ]

パリビジョン観光バス

最初に パリを訪れたのは昔むかしの個人旅行の時でしたが、チュイルリー( Tuileries ) 庭園まえの バス乗り場付近に女房を待たせておき、道路の反対側にある パリ ・ ヴィジョンの観光 バス案内所で ベルサイユ観光の キップを買って戻ってくると、女房が怒っていました。

乗り場の案内人が大きな声で私のことを 「 婆さん、ばあさん 」 と言っているとのことでした。小柄な日本人の女性は海外では 10 才程度若く見られるのが普通ですが、当時まだ若かった女房が老人に見られるはずはありません。そこで彼女に言いました。ベルサイユ ( Versailles ) の英語の発音は ヴァーサイ だよ

ベルサイユ庭園

ベルサイユ宮殿には建設当時から トイレの数が極めて少なかったので、国王に招かれて宴会などに出席した紳士淑女たちは庭園などの植え込みで用を足した話はよく知られていますが、パリの 「 乞食取り締まり制度 」 ( Police sur les Mendiants )という書物によれば、それだけでなく ベルサイユ宮殿内部の通路、ウイング ( 翼 ) の建物の中庭、回廊などは尿と糞便であふれていて、 「 人類のありとあらゆる汚物の捨て場 」 であると記されていました。

オマル椅子初期の穴椅子

トイレ不足を解消するために、 15 世紀に開発された シェーズ ・ ペルセ ( Chairs Percee ) つまり オマルを下部に備え付けた 穴あき椅子 が ベルサイユ宮殿に持ち込まれました。

ルイ 14 世 ( 1638〜1715 年 ) 時代の ベルサイユ宮殿の財産目録には、 274 脚の オマル椅子 が記載され、その内の 208 脚は穴の下に排泄物の受け皿を持つだけの簡単なものであり、 66 脚が引出し付きで 、排泄物の受け皿は密閉された引き出しの中に格納されていました。写真の右側の椅子は、穴あき椅子の構造を理解するためのものです。

ルイ13世の肖像画

ルイ 13 世 ( 1601〜1643 年 ) が オマル椅子の玉座 に腰掛けたままで、臣下を接見したことはよく知られていますが、金 メッキした鋲で高級生地の ベルベットを椅子に張り、肘かけには豪華な飾りを付けて、陶製や 銀製の糞尿受け皿 が設備されていました。ある時 王のお抱え道化師の マレーが ルイ 13 世にこういいました。

陛下のお仕事で、私め がどうしても マネのできそうもないことが 二つあります。「 王、それは何じゃ?。」 たった 1 人で食事をすることと、人の前で 排便すること でございます。

[ 6:下肥 ( しもごえ ) の利用 ]

世の中には誤った知識が数多くあるものですが、そのうちの 一つに下肥 ( しもごえ、人の排泄物 ) を肥料にするのは日本などの アジア地域だけであり、 ヨーロッパの農業では下肥 が使われた歴史が無い などというものでした。

しかしこれは 大きな間違いであり 、中世の イギリスでは下肥を積極的に使用していましたし、フランスでも北部の ノール県の県庁所在地の リール ( Lille ) では 1850〜1870 年 ( 明治初年頃 ) でも 、朝 8 時以前に銅製の樽を積んだ荷馬車を引いて糞尿収集人が町を歩き回り、 樽 一杯 40 スー (  Sou、スーとは昔の貨幣単位 ) と叫び主婦や女中から 下肥を買いとり 、家の糞尿溜からそれを汲み取り運んで行きました。

これが リールやその郊外の農民達に転売されて、農民はこれを菜種の絞り カスと混ぜて肥料にしました。以上は書物により確認できたものです。

( 6−1、江戸の下肥 )

農耕がおこなわれるようになると、人々は糞尿が持つ肥料としての効力にやがて気が付いたので、それを溜めて肥料として利用するようになりました。大事な肥料となる糞尿が地下にしみ込むのを防ぐために大きな瓶 ( かめ ) や壺 ( つぼ ) を地中に埋めてそこに溜め、雨天の際の排泄に体が濡れるのを防ぎ、壺に水が入るのを防ぐために、便壺を屋根で覆うようになりましたが、これが便所の始まりでした。

日本では鎌倉時代 ( 1192〜1333 年 ) 後期になると、汲み取り便所が家 ・ 屋敷にも設置されるようになりましたが、江戸時代になると人口増加と共に下肥の利用はさらに盛んになりました。

汚穢舟

享保年間 ( 1716〜1735 年 ) には江戸は世界最大の人口を持つ 百万都市に成長しましたが、江戸の糞尿は武蔵 ・ 下総の 37 ヶ 領、1,000 以上の村に対する肥料供給源となり、それで育てられた野菜 ・ 米などの農作物が今度は江戸に供給されました。

肥車

江戸の町での屎尿 ( しにょう、糞尿 ) の運搬には、江戸城の屎尿を含めて船が主役であり、大八車 ( 荷車 )、馬などで最寄りの川岸まで肥担桶 ( こえたご ) に入れて運び、そこから葛西船 ( かさいぶね ) で江戸から関東平野の村々へ運びました。

屎尿 ( しにょう ) の汲み取り ・ 輸送 ・ 農家への販売の仕事は商才がある農家の副業として始まりましたが、後に本業となり、中でも葛西の農民でした 権四郎は江戸城本丸の糞尿の汲み取りを引き受けていたことで有名でした。

葛西船

このため江戸の人々は糞尿を運ぶ船はすべて葛西 ( かさい、東京都 ・ 江戸川区、葛飾区南部 ) から来るものと思い、肥船 ( こえぶね ) のことを葛西船 ( かさいぶね ) と呼ぶようになりました。左の船は葛飾区にある 「 郷土と天文の博物館 」 の 2 階、郷土の フロアに展示されている実物の 2 分の 1 の大きさの肥船 ( こえぶね ) です。

ちなみに屎尿 ( しにょう ) にも中身 ( 含まれる栄養分 ) の良し悪しにより、農民との売り買いの 値段に 4 倍もの ひらき がありましたが、高品質順に、

  1. お城肥 ( おしろごえ ) : 贅沢な食事をとる江戸城大奥の便所から汲み取った屎尿 ( しにょう、糞尿 )で、最高の品質に指定されました。

  2. 勤番肥 ( きんばんごえ ) : 江戸に在勤する各藩の、大名屋敷のもの。

  3. 町肥 ( まちごえ ) : 江戸の町方の家で汲み取ったもので、節約を旨とする商家の屎尿 ( しにょう ) よりも、体が元手の職人が住む長屋の方が肥料としては上質でした。

  4. 辻肥 ( つじごえ ) : 農民が街角 ( 辻、つじ ) に設置した公衆便所の屎尿のことで、参考までに明治 22 年 ( 1889 年 ) に大阪に市制が施行された時には、「 路傍便所 」 が 1,500 ヶ所 もありましたが、これから江戸時代における江戸や京都の町の公衆便所の状況を推測することができます。

  5. 屋敷肥 : 牢屋敷などの屎尿で食事の質が悪く、従って排出物の品質も最下等でした。

食生活の質により排泄物である肥料としての品質に差が生じて、値段にも格差が生じたのでした。

こやし運び

1933 年生まれの私は 11 年間東京で暮らし、敗戦間際から戦後にかけて田舎暮らしをしましたが、当時の東京における排泄物処理についてはここをご覧下さい。学童集団疎開先でした長野県の村や両親の疎開先でした栃木県の田舎では、落ち葉、わら、塵芥、野草などを積み重ねながら人糞や家畜の糞を何層にも散布し発酵させて作る堆肥 ( たいひ ) は、農民たちにとっては自力生産できる肥料として貴重品でした。

ちなみに カネを出して購入する化学肥料 ( 干し鰯の魚肥、大豆油の絞り粕、石灰窒素、硫酸 アンモニア = 硫安など ) のことを、金肥 ( きんぴ ) と呼んでいました。

( 6−2、戦後の肥料難 )

汚わい舟

敗戦の年である昭和 20 年 ( 1945 年 ) は、天候不順、戦争による労働力不足、粗末な農機具、そして肥料や農薬生産の減少により、米の収穫は例年より 40 パーセント近くも減少し、明治 43 年 ( 1910 年 ) 以来 最悪の不作の年となりました。その後も食料不足が続き食料の増産が緊急の課題でしたので、肥料である糞尿は近郊農家に引っ張りだこでした。当時、東京都の汲み取り戸数は約 100 万戸で、 1 日の糞尿排出量は約 1 万 6,000 石 ( 2,880 キロリットル )でした。写真は糞尿を積む汚穢 ( おわい ) 舟。

しかし昭和 35 年頃から始まった経済成長期から人糞を肥料に使わなくなり、東京では下水処理場の不足もあって各家から集めた屎尿 ( しにょう ) を、専用投棄船で外洋に投棄していましたが、低高度を低速で飛ぶ プロペラ機に乗っていた当時には、羽田空港から出発しあるいは進入する際には房総半島南端にある野島崎の沖合の太平洋上で、屎尿 ( しにょう )投棄船が何百メートルも黄色い航跡を引きながら投棄する現場を空中から何度も見た事がありました。

( 6−3、いろいろな使い道 )

カキいかだ

ところで冬の鍋料理に使う牡蛎 ( かき ) がありますが、昭和 20 年代の終わり頃のこと、広島湾内にある 「 かき養殖筏 」 の上から大きな 「 ひしゃく 」 で下肥を海中に撒いている姿を目撃しましたが、それ以来 「 がき 」 を食べるのを一時止めました。今では廃止されたと思いますがその当時は畑に肥料を施すのと同じ感覚で、干潮や満潮の際に潮の流れが止まる 潮だるみ ( Slack water ) に 「 養殖かき 」 へ 下肥を施して生育させていた のでした。

ある人の話によれば、

海苔 ( ノリ ) の養殖には、糞尿が一番 ( 生育に ) いいんです。しかし食卓に出された海苔を見て、これが人糞で育ったものだと思うと誰も食べなくなるので、あまり大っぴらにはやっていませんでしたが、実際には糞尿運搬船が近くを通ると養殖業者が手招きして、この辺に少し糞尿を撒いてくれと昔は頼んでいました。

[ 7:トイレット ・ ペーパー ]

今年 ( 2009 年 ) になって奈良市の平城宮 ( 710〜784 年 ) 跡で、糞便を溜めたとみられる 6 基の穴が発掘されましたが、同時にそこから 279 本の 木製の ヘラ ( 後述 ) が発見されました。

便所紙

便所での尻ぬぐいに 紙が使用されるようになったのは元禄時代 ( 1688〜1704 年 ) からだといわれていますが、江戸では文書として使用済みの紙 ( 古紙 ) を水に浸し、叩いて繊維を砕き、再生した浅草紙が有名でした。それ以前は木の葉 ・ 稲わら ・ 木片 ・ 竹片などが使用されました。

私が子供の頃は東京でもほとんどの家がいわゆる ボットン便所でしたので、便所で使う紙のことを 「 落とし紙、便所紙 」 と呼んでいました。粗悪な紙質の灰色の紙でしたが、太平洋戦争末期には物資不足からそれも買えなくなったので、新聞紙を手頃な大きさに予め切っておき使用しました。

昭和20年 ( 1945 年 ) 4 月の空襲で東京の家が焼けたので、両親は栃木県の田舎に疎開し、長野県の山奥の寺に学童集団疎開をしていた私は敗戦により現地解散したので両親に合流して栃木県の僻地での生活を始めました。

田舎の家では便所は屋外にあり、使用後の紙を便槽内には落とさずに、竹で編んだ かごの中に棄てましたが、前述した堆肥を作る際に紙が水に溶け難く 邪魔だったからでした。

便所

私が住んだ僻地の村ではその当時新聞を購読する農家は極めて少なく、郵便配達人が 1 日遅れの新聞を配達していましたが、多くの農家では用便の後始末に貴重な紙など使わずに、 30 センチ( 1 尺 ) ほどの長さに切った稲わらを 5〜6 本 束ねて半分に折って同じわらで括り、それでお尻をぬぐうか、「 ちょーぎ 」 と呼ぶ木や竹の ヘラ ( クソ掻き ベラ ) で用便後の尻ぬぐいをしていました。

右図では使用前と使用後の 「 ちょーぎ 」 が示されていますが、使用後は火に燃やすか洗って再利用しました。肥料貯蔵の目的も兼ねた大きな便壺に落ちないように、梁から縄をつるしてありましたが、分別縄といいました。

成長してから 「 ちょーぎ 」 ではなく、正しくは 籌木 ( ちゅうぎ ) であることを知りましたが、中国では紀元以前の昔から 「 ちょーぎ 」を使用していたので、その習慣が多分古い時代に日本に伝えられたに違いありません。

平成 15 年の統計によれば排便後のあと始末に 50 パーセントの家が ウオッシュレットの温水を使うようになりましたが、残りの 50 パーセントは ウオッシュレットではなく、 トイレット ・ ペーパーを使用していました。ものの本によれば 1 回の排便に  ロール ・ パーパー ( トイレット ・ ペーパー )を使用する長さについて、 男性は 1 メートル、女性は 1.3 メートルで、女性の 小 の場合には 0.8 メートル という数値がありました。

またある調査によると排便後の後始末に、 紙を使うのは世界人口の 3 割であり、残りの 7 割は紙以外のものを使用 していました。その筋の権威者である慶応義塾大学、西岡秀雄氏の研究結果は下表の通りです。


尻を拭くもの主な製品国   名補   足
−−ヨーロッパ、アメリカ、 アジア、オーストラリアなど色、質は種々
指と水−−インド、インドネシアなどイスラム教圈、ヒンズー教圈暑くて川の近い所は川が自然の水洗トイレ。お尻の始末は川の水
指と砂砂漠地帯の砂サウジアラビア、他砂漠地帯砂漠の砂は細かくて痛くない。指もお尻もすぐに乾燥して、砂は自然に落ちてしまう
小石平らな石エジプトエジプトなど、ラクダを引いて歩く人達。拾ってポケットに入れて冷やしておいた小石で拭き取る
土板−−パキスタン−−−
葉っぱ大きな葉っぱ、フキソビエトの一部、日本その他乾燥させてしおれさせたり、塩水に漬けて柔らかくしたものを使う
ロープ、縄−−中国(黄土地帯)、アフリカ諸国(サバンナ地帯)2本の杭にロープを張り、お尻をこすって拭いたりする
茎や、わら−−日本、韓国−−
海綿−−地中海諸国−−
トウモロコシトウモロコシの先の毛、芯米国コーンベルト地帯−−
木片、竹べら−−日本中国、日本でも敗戦後まで使用されていた地域もあり
樹皮−−ネパール他−−
布きれ−−ブータン−−
海草−−日本−−


上記以外にも スェーデンでは雪を使うこともあり、中国、沖縄で行われていた豚小屋の上に便所を作る 「 豚トイレ 」 など、それぞれの国によって、尻を拭く文化は異なりました。

[ 8:トイレで、カネを稼ぐ人 ]

( その、1 )
先進国にはいませんが後進国では ホテル内の共同 トイレを仕事場にして、チップで生計を立てる人がいます。大 ・ 小にかかわらず用を足した後で手を洗おうとすると、ホテルの ボーイに似た服装をした男が素早く水道の コックをひねってくれて水を出し、手洗いが終わるとさっと タオルを差し出すのです。手を拭き終わると タオルを受け取りながら片方の手を差し出して、チップの催促をしました。多分 ホテルの従業員ではなく、トイレ掃除を条件にして チップを稼がせてもらっているのに違いありません。

( その、2 )
別の国では観光地の公衆便所の入り口に人が座っていて、小さな机の上の皿には 小銭ではない オトリの紙幣 が置かれていました。彼はそこを縄張りにして公衆 トイレの利用者から、利用料 ( ? ) か チップか分からぬものを受け取っていましたが、払うのは外国人だけで地元の人は無視していました。掃除の行き届いた トイレであれば良いのですが、不潔な状態でした。

( その、3 )
空港の トイレでも カネ稼ぎをする者もいました。先頃 ガンで死亡した フィリピンの アキノ元大統領の夫で暗殺された ニノイ ・ アキノの名前を付けた国際空港の ターミナル ・ ロビーでは、大の トイレに入ろうとしたら男が寄って来て、 個室には紙が無いからこれを使え といって半分ほど使用した トイレの ロール ・ ペーパを 1 巻差し出しました。

おかしいと思ったので値段を聞くと 3 ドル ( 300円 ) だというのです。日本の スーパーマーケットで買えば 1 巻 30円〜50 円しかしない トイレット ・ ペーパーを、物価が安い フィリピンで 5 ペソ ( 10 円 )〜10 ペソ ( 20 円 ) 払うのならまだしも、300 円 ( 150 ペソ ) も ボッタクラレルのは馬鹿らしいので、断って手持ちの ティシュペパーで代用しました。だいたい彼の トイレット ・ ペーパー自体も、最初から トイレに備え付けてあったものに違いありません。

( その、4 )
ある人が書いた本によれば、 スペインの空港で トイレに入ろうとしたら、たまたま掃除中でした。中にいるおばさんが 使ってもいいよ と言ってくれたので、感激した日本人観光客の親子連れが余分に チップを払って出たとのことでした。ところがそのおばさんは終日掃除中の看板を立てておき、チップを多目に稼いでいたのが後で分かり、唖然としたのだそうです。

貴方はそれでも人間の性善説を信じますか?。特に 外国では スキがあれば 外国人客から ボッタクル食堂、タクシー運転手、外貨両替の際のごまかし、商店における釣銭の 不足、信用できない ホテルの従業員、ニセ警官など、ズルイ人間に多く出会ったせいか 私は性悪説を取ります。

( 8−1:ある人の体験 )

イスラム教の国では教えに従い不浄の左手でお尻を洗うことはよく知られていますが、友人の 1 人がある時 イスラム方式によるお尻洗いを初体験したとのことでした。場所は トルコの首都 アンカラにある エンセンボーア国際空港の トイレで、 中に入ると トイレ用の紙が無く 「 トルコ式 」 ともいわれる キン隠しが無い便器で、足置き場が少し高くなっていましたが、日本と同じ 「 しゃがむ方式 」なので違和感はあまり無かったとのことでした。

トルコ式トイレ

水桶と 「 ひしゃく 」 、金属製の ホースに装着された給水 ノズルがあったので、 ホースを手に持ってお尻を洗う手動 ウオッシュレットかと思い、 蛇口をひねったところ、強い水圧の水が噴出したので、 ズボンの裾 ( すそ ) も靴も シブキで濡れてしまいました。

そこで挫 ( くじ ) けずに気を取り直して、今度は給水 ノズルから一旦 水桶に水を溜めると、慣れない左手を後ろ側から下にまわして指が目的地に到達したので、右手の 「 ひしゃく 」 で局所や手に水を掛けました。 「 もの 」 が付着している感触がよく分からないままに何度も水を掛けながら 「 水戸黄門 ( 肛門 ) さま 」 を指で洗い、最後は 「 もの 」 に直接触れ汚染された指先を 「 ひしゃく 」 の水で洗い流したのだそうです。

彼いわく、紙や 「 ウオッシュレット 」 では得られない 指先による 清潔さの確認ができた とのことでしたが、コツとしては食事の際に乾いた箸に、ご飯粒が付着するのを防ぐために ミソ汁などでまず濡らすように、「 黄門さま 」 に触れるまえに、 まず指先を水で 濡らすこと だそうです。ものの本によれば同じ イスラム国家の イランでは、水道設備のある所では 「 水桶 」 が無く、ホースで直接 「 黄門さま 」 に水を掛ける 直接噴射式 なのだそうです。

( 8−2、その際の方向が重要 )

キブラ・コンパス

さらに イランでは立ち小便は道路に限らず トイレの中でも戒律に背く行為なので、トイレには男性の小便器が無く、 個室の中で 「 しゃがんで をする 」 のだそうです。

国教である イスラム教 シーア派の戒律では イスラムの教祖 マホメット ( ムハンマド ) の出生地で イスラム教第一の聖地とされる カーバ ( Ka'ba ) 神殿がある メッカ ( Mecca ) の方向に向かって大 ・ 小便をするのは禁止なので、野外で 「 催した時 」 、あるいは旅行の際には キブラ ( Qibla、メッカへの礼拝の方向 ) を キブラ ・ コンパスの計器で確認し、それ以外の方向に向かって排泄するのだそうです。

新型 キブラ計

しかし最近では カーナビに使用する GPS ( Global Positioning System、地球測位 システム ) を組み込んだ キブラ ・ コンパスができたので、これまでのものよりはるかに正確でしかも短時間に メッカの方向を知ることができて、 排泄の方向に関する苦労 が軽減されました。

ところでもし トイレが キブラ ( 礼拝の方向 ) に向き、それ以外に トイレが無い場合はどうするのでしょうか?。登山の際に何度も 「 きじ打ち 」 ( 注参照 ) したことがある私は、 イスラム教徒でなくて良かった、と思いました。

注:)
きじ打ち ( 撃ち ) とは山の用語で、男性が 「 野 グソ 」 をすることをいいますが、その語源は雉鳥 ( きじ ) 猟の際に、草むらで猟銃を構えてしゃがみ、猟犬が 「 きじ 」 を生い出し飛び立つのを待つ姿勢から名付けられました。

時には大 ( だい ) きじ、小 ( こ ) きじ ( 小便 )、などとも言い、きじ打ちをするのに適した岩陰や茂みなどのことを 「 きじ場 」 とも言いますが、たいていそこには過去に先客が残した 「 もの 」 の痕跡があるものです。

女性の場合には 大 ・ 小の区別が無く、しゃがんで排泄する行為のことを お上品な表現で、 「 お花摘み 」 ともいいます。

ちなみに旧約聖書 ・ 申命記 ・ 第 23 章 ・ 12 節〜13 節によれば、戦いの場における排便時の作法について、

あなたは陣営の外に 一つの所を設けておいて、用をたす時、そこに出て行かなければならない。また武器と共に鍬 ( くわ ) を備え、外に出て かがむ時 それをもって土を掘り、向きを変えて出た物を覆わなければならない

とありましたが、 野外における 「 排便の作法 」 についてまで、旧約聖書に丁寧に書いてありました。

[ 9:所変われば、排泄方法も変わる ]

男のしゃがみ小便

古代 ギリシャの歴史家に ヘロドトス ( ?〜紀元前 484 年頃 ) がいましたが、オリエント各地を旅行し、その間に得た見聞を織り込みながら ペルシャ戦争を著書 歴史( 全 9 巻 ) に記述し、後に 「 歴史の父 」 と称されました。その第 2 巻 35 章によれば、 エジプトの女性が立ったままで小便をし、反対に男性がしゃがんでするのを見て驚いたと記していました。

男がしゃがんで小便をするには、それに適した服装が必要です。現代風に ズボンを履いたままではできないので ズボンを下に降ろす必要がありますし、その点 巻き スカートや アラブ風のゆったりした服装はそれに適した服装です。写真は バングラデシュ人の男性が、公衆便所で しゃがんで 小便をする姿です。

( 9−1、女性の立ち小便 )

江戸時代の戯作者 ( げさくしゃ ) で 、「 南総里見八犬伝 」 などを書いた曲亭 ( 滝沢ともいう )馬琴 ( きょくていばきん、1767〜1848 年 ) が享和 2 年 ( 1802 年 ) に関西を旅行して書いた旅行記 「 羇旅漫録 」( きりょまんろく ) によれば、( かっこ内は私が補ったもの。)

〔 八十二 〕 女兒( おんな ・ こども ) の立小便
女の立ち小便

京の家々厠 ( かわや ) の前に小便擔桶 ( たごおけ ) ありて、女もそれへ小便する。故に富家 ( 金持ちの家 ) の女房も小便は悉く ( ことごとく ) 立て居て ( 立ったままで ) するなり。

但良賤 ( ただし、良家の女性も、下賤の家の女性も ) とも ( に ) 紙を用 ( もちい ) ず。妓女( 遊女 ) ばかりふところかみ ( 懐紙 ) をもちて便所えゆくなり。

月々 六齋 ( 度、? ) ほとづゝこの小便桶をくみに來るなり。或は供 二〜三人つれたる女、道はた ( 道端 ) の小便たご ( 担桶 ) へ立ながら尻の方をむけて小便をするに、耻る ( 恥じる ) いろ ( 気色 ) なく笑ふ人なし。

とありましたが、江戸の町では見なかった女の立ち小便を、それまで立ち居振るまいや容姿が優美であると思っていた京女 ( おんな ) が堂々と 「 立ち ション 」 するのを見て、馬琴が驚いたことが分かります。江戸中期〜後期の狂歌師で戯作者 ( げさくしゃ ) の太田南畝 ( なんぽ、別名 蜀山人、しょくさんじん ) が巷 ( ちまた ) でおきた雑事の見聞録である 半日閑話 によれば、

いなか ( 田舎 ) にまさる ( 勝る ) きたなさ ( 汚なさ ) は、 のき ( 軒 )をならぶる町中で おいへ( 家 )さんでも いとさんでも くるりとまくって立ち小便

とありましたが、「 おいへさん 」 とは奥様、「 いとさん 」 は 、「 いと 」 が 「 いとけない、幼いの意味から 」 お嬢さんのことです。さらに川柳では

京おんな立って垂れるが少し疵 ( きず )

小便はしゃがんでしろと女衒 ( ぜげん ) いい。

富士額 ( ふじびたい ) 担桶 ( たご ) へまたがる 京の嫁

とありましたが、女衒とは人買いのことで、田舎娘を売春業者に売る際に小便の仕方を教えたものであり、富士額 ( ふじびたい ) とは当時 美人とされた女性が持つ髪の生え際の形容詞です。

しかし女性の立ち小便はこれ以外にも文化末年 ( 1818 年 ) から弘化 2 年 ( 1845 年 ) 頃までの約 30 年間にわたり、古今の書物の記事を抜き書きした 小山田与清 ( おやまだともきよ ) 著の、「 松屋筆記 」( まつのやひっき ) 巻 57 には、

婦女の立ち小便は田舎に限らず、京大阪にも多かり

婆の立ちション

とあったので、関西地方では、当時からこんな風習が一般的であったことが分かります。しかし江戸時代どころか 昭和 20 年 ( 1945 年 ) に移り住んだ栃木県の僻地では、婆さん連中の立ち小便姿をしょっちゅう目にしたので、当時小学生だった私は、女性が年を取ると 立ち小便をするもの とばかり思っていました。

しかし今になって考えると、その当時の老女は パンツを履いていなかったからできたのでした。なお板にある四角い穴が本来目的とする穴であり、放物線を描きながら命中させるには熟練の技が必要でした。

( 9−2、排泄に対する感覚も )

ペンサコラ

海上自衛隊の幹部候補生学校を仲間の学生よりも 4 ヶ月早く仮卒業して、昭和 32 年 ( 1957 年 ) に アメリカ海軍飛行学校に留学した当時は、一般の兵隊さんと士官 ( 将校 ) との中間の身分である士官候補生( Cadet )でした。

軍隊の組織では指揮する者とされる者とは、待遇に明確な違いがありましたが、半人前でした我々の宿舎の トイレには隣との仕切り板があったものの ドアはありませんでした。さらに食堂に隣接した元兵隊さん用だった トイレには、隣との仕切り板もない大便用の便器が 10 箇ほど横一列に並び、反対側には小便用の便器が同じ数だけ並んでいました。

日本人は特に大便をする姿を他人に見られることを極度に嫌がりますが、アメリカ人にはそういう感覚がなく、排便しながら隣の者と会話をしたり、新聞の貸し借りをしたり、小便をしに来た者が排便中の友人を見つけると話かけ、オナラの音や排泄音を聞きながら会話をするなどと、日本人とは感覚的に大きく異なりました。

4ヶ月後に日本の仲間が 3 等海尉 ( 最下位の士官 ) に任官すると、その知らせが届いた 1 ヶ月後に士官になり、独身の士官宿舎に入居することができたので、そこでは個室の トイレを使う身分になりました。

( 9−3、トイレの自動化 )

ある統計によれば、女性が公衆便所で用を足す場合に、洋式トイレ( 座り方式 )と和式 トイレ ( しゃがみ方式 ) のどちらを好むかの質問に対して、50 パーセントの人が和式を選びましたが、その理由は 何十人〜何百人もの人が座った洋式便座に 肌が触れることへの嫌悪感からでした

かつては羽田空港や、成田空港第 1 ターミナルにある新設された 南 ウイングの洋式便所は、 ボタンを押すと トイレに流せる紙製の便座 カバーが自動的に出てきたそうですが、女房によれば最近は故障か紙の節約からか分かりませんが、紙が出なくなったとのことでした。

自動洗浄便座 ヨーロッパの主要都市の有料便所には数が少ないものの、 完全自動洗浄式 トイレ がありますが、使用中の人が立ち上がると センサーが探知して便座や便器の洗浄、消毒が自動的に行われるのだそうです。それにはいろいろな タイプがありますが、そのうちの 一つが写真のように 120 度開いた位置に 3 箇の便座が取り付けられていて、使用後には便座が自動的に回転移動し、便座の洗浄、乾燥、殺菌が行われるために、次の人は清潔な便座に座ることができるのだそうです。

完全自動トイレ

ところで 完全自動洗浄式の トイレ が日本にも設置されるようになりましたが、去年京都の嵐山に遊びに行ったところ、阪急電車の嵐山駅前の ロータリーから中之島橋に行く途中の左側にそれがありました。

100 円で 10 分間使用できる有料 トイレでしたが、使用後に自動的に便器、便座、床を洗浄し、便座については、消毒及び乾燥も行うのだそうです。しかし阪急嵐山駅には無料 トイレがあり、さらに嵐山公園の中之島地区にも無料の トイレが 4 箇所もあるので、私が見た限り有料 トイレを使用する人は誰もいませんでした。

( 9−4、強くなった女性と靴下 )

女性小便器

敗戦後 強くなったのは 「 女性と靴下 」 といわれましたが 、ナイロン製の ストッキングが開発される以前は 「 しゃがんで 」 すると、高価な絹の ストッキングが伸びたり、伝線する原因にもなりました。そこで東洋陶器 ( 現、TOTO ) が アメリカの会社が開発した女性用便器を参考にして、立ったままでする 女性用小便器を 「 サニスタンド 」 ( Sanistand )の名前で、昭和 26 年 ( 1951 年 ) に売り出しました。

しかし女性の 「 立ちション 」 は はしたない ( 下品な振る舞い ) として反対者が多く、普及しなかったことから売れ行きが伸びず、昭和 46 年 ( 1971 年 ) に生産中止になりました。

以前 アメリカの私立女子高校に留学した女性の体験談を読んだことがありましたが、その学校の トイレには片側が 「 大 」 用の便器が並び、他方には女性の立ち ション用便器が並んでいて、多くの女子学生が 「 立ち ション 」 をしていたそうです。しかも終了後は紙を使わないのだそうで、彼女は最初は紙で拭いていたものの、やがて 「 郷に入りては郷に従え 」 で紙を使用しなくても慣れたのだそうです。

世界でも 「 立ち組 」 は現在も多く、外人女性選手が競技に訪れる東京の国立競技場の女性 トイレには、「 サニスタンド 」 が 2 箇あるそうです。なお使用法は サニスタンドに背を向けて立ち、両手が膝に触れる程度に上半身を前傾するのだそうです。前傾姿勢 ( ? ) が必要なのは アイス ・ スケートや スキーの回転だけか と思いましたが、意外な場面でも必要なことが分かりました。

[ 10:便所の水洗化率 ]

総務省 ・ 統計局が 5 年毎に発表する、 住宅 ・ 土地統計調査報告の平成 15 年度 ( 2003 年 ) の データによれば、日本における都道府県別の便所の水洗化率 ( パーセント ) は上位順に下表の通りです。


順位都道府県名水洗化率順位都道府県名水洗化率
神奈川96.3石 川93.9
沖 縄96.3静 岡93.8
東 京94.4埼 玉93.8
愛 知94.2大 阪92.6
兵 庫93.910千 葉92.4
−−−−−−−−−−
15京 都89.0−−全国平均88.4


便所の水洗化がもたらすものは必然的に水の使用量の増大であり、その量は家庭用水の 20 パーセント を占めることになります。夏季に水不足が起き易い沖縄をはじめ首都圈などの大都市では、将来の水資源の確保  [ 群馬県の 八ん場 ( やんば ) ダム問題など ] と共に節水が不可欠になります。



[ 11:大災害に備えて ]

平成 7 年 ( 1995 年 ) に起きた阪神大震災に兵庫県南部で遭遇しましたが、  詳しいことはここを クリック  してお読み下さい。

1 : 電気は 4 日間停電が続いたこと。

2 : 水道は 5 日間断水したこと。

3 : ガスに至っては 3 週間使用不能でした。

被災した友人の体験談によれば、避難所に指定された近くの学校の講堂に避難したところ、 8 時間は飲み物、食べ物が全く支給されず、おにぎり 1 箇が支給されたのは 12 時間後でした。 水が出ない水洗 トイレは 数時間で詰まり 、使用できなくなったそうです。

2 時間毎に訪れる 「 小 」 の排泄と、毎日 1 回以上必要になる 「 大 」 の排泄を、断水が何日も続く事態になったら どう処理するのか 、 あなたの家庭でも日頃から考えておくことが必要です

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