2003.01.29

希望の判決

2003年1月27日、名古屋高裁金沢支部は、高速増殖炉「もんじゅ」に対して「国の安全審査
には見過ごせない誤りや欠落があった」という判断を下し、原子炉設置許可処分を無効とした。

この判決をラジオのニュースで聴いたとき、「へー、やったね! 日本の裁判所が珍しく機能し
てまともな判断を下した。」 だんなさまが帰ってくるのを待っていて、「いい判決がでたね」て
話をした。
だんなさまも私も、日本の現在の裁判所というのは三権分立のひとつとしての司法の役割を
果たしているとはいえない。今度のような判断が下されて、ちょっとは希望が持てるかと話あ
った。

そもそも、三権分立の考え方は、立法、行政、司法がそれぞれ独立した立場に立って、それ
ぞれチェックしあって、機能させようという考え方だと思う。
しかし、最近の判決を見る限り、司法は行政の下僕になりさがっており、公共の利益という名
目に逃げ込んで国民の利益、国家の長期的利益、憲法に記された基本的な国民の利益の
擁護という機能を果たしていなかったと思う。

「日本の裁判所っていっつも政府や国の味方だよね、一回も国民の味方になったことないね」
って私が言ったら、「戦後ずーっとそういう訳じゃないんだよ。かっては労働者の権利などを正
当に保障した判決もあったんだけどね。まみっちが意識し始めてからは駄目になってるね。」て。

憲法というのは、国民が自らの権利を国家から守るための基準である、という考え方を読みま
した。それを見たとき私にとっては目からうろこみたいな思いでした。
日本の裁判所では憲法をそのように国民の権利を守るように使われ、解釈されているとは考
えられないのだもの。

しかし、今回の高速増殖炉もんじゅの安全性に対する判断で、今回のようなちゃんとした判断が
なされなかったら、日本の司法も終わりだよねって思う。 今の国民と未来の日本人を守ること
を放棄した司法なんてね。

しかし、この判決が私にとってびっくりの希望の判決ということは、逆に今の日本の裁判所、司
法が本来の機能を果たしていないということなのですよね。

最高裁に行くとこれがひっくり返って、やっぱり司法は行政の下僕で国民を犠牲にする道具って
いうことが明白になったりするのかもね。

司法改革の基本は、まずちゃんと三権分立の司法の役割を確立して、国民の権利、憲法の精
神を守る本来の司法の立場を確立することじゃないの。
お金持ちだけがいけるロースクール構想なんて、ちょっと違うんじゃないの。
お金持ちでいろんな経験が少ない人だけが、司法界を担うようになると、お金持ちのお勉強だ
けができるお医者が増えてちょっと変なお医者の世界みたいにならないかな?
まじ、心配です。